理想の親
ありがとう
皆さんはどんな時に有り難いと思われますか。たとえば…
1.あそこの子供さんは障害があるそうだよ。かわいそうに。うちはほんと、有り難いと思わないとね。
2.ほら、あの国の子供達をみてごらん。ご飯も食べられずにいる。有り難く食べないとだめだよ。
いかがですか。私たちは「あそこに比べれば我が身は有り難いことだ」と思いがちです。
この「有り難う」という言葉は仏教の精神を含んでいる言葉ですが、こんな思いで使う言葉ではありません。
この問題点は、自分よりつらい立場の人を前提にしないと、自分のいまを仕合わせ(しあわせ)と思えないこ
とです。私にとっては仕合わせを感じる時かも知れませんが、踏み台にされた人には、ただ悲しみだけが残ります。こんなものには、「有り難う」とはいいません。
先程から「ありがとう」を「有り難う」と書いてきましたが、これを「(苦)難が有って、かえってよかった」
と読んではいけません。ある面、人生では、苦しみを乗り越えるところによりよいものがある、といえるかもしれません。あえて、この文脈でいえば、「(苦)難が有って、つらかったね、一緒に歩もう」といえます。
本来の意味は「有ること難し」で、ひとつひとつのことが、いろいろなご縁でできているのだ、こうしてあること(出会うこと)はまれなことだ、ということを表わしたものです。
私たちはなぜ親と呼ばれるのでしょうか。子供を産んだから親でしょうか。
親は子供を育てる、とはいえません。子供を育てる姿をいつしか「親」と呼んでいるのが本当です。子供とケンカして、泣いて、笑って、思い悩んでいるその瞬間瞬間が親の姿です。
親だから子供の世話をするのではありません。もともと「親」というものはいないのに、立派な「親」になろうとして悩んでいます。
自分は立派な親になれないと思い悩んでいる人もいるでしょう。
思い悩む必要はありません。立派な親、そんなものはありません。親と子というご縁をいただいた命が懸命に生きていく姿が家庭であり、親と子と呼ばれる関係なのです。
一人ひとりの生き方が違うように、有りもしない理想の親という幻に惑わされず、一人ひとり違う親となってください。仕合わせの形は人それぞれです。
「有り難う」とは、何気なく思っていた一瞬が尊いものになる時なのです。
私と小鳥と鈴と
私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、きれいな音はでないけど、あの鈴は私のようにたくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。
金子みすず
願成寺 釈慈明