曽於市のしゃらこども園は、豊かな思いやりのある心、知的好奇心や遊び心のある保育、教育、基本的生活習慣の育成等を通してまことの保育(仏教精神に根ざした保育、教育)を目指しています。

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殺処分しました

今日知識は急激に増え、子供でもコンピューターを遊びに、学びに使うようになりました。生身のいのちに係わることなく、ブラウン管や本の中だけでの経験では不十分である、いや、かえって危険であることに気づいているでしょうか。
日本人の脳は大人になっても未発達のままであるという研究結果と、昨今の時代の流れは合致しています。知識があることといのちの尊厳を感じることは比例していません。そのことについて以下の文章を読んでみてください。
末本弘然 氏 どこか尺度が狂っている 本願寺新報 2004年2月10日
今年初め、山口県でいわゆる鳥インフルエンザのウィルスが確認されて以来、中国やタイ、ベトナムなどの東南アジア諸国でも次々と発症が確認され、流行が拡大していることが明らかになった。農水省では、中国、タイなど感染の恐れがある十三力国・地域からの鶏肉・加工品の輸入を停止する措置をとったが、これらの国の鶏肉を多く使用している外食産業やスーパーは、BSE(いわゆる狂牛病)による米国産牛肉輸入停止と相まって、大きな痛手を被ることになった。
それにしても、痛ましい現実を目の当たりにさせてくれたものただ。何しろ、感染した鶏だけでなく、生きている鶏も根こそぎ殺してしまうのだから…。
山口県では飼われていた三万四千羽のうち、一万五千羽が病気で死に、残りの一万九千羽は窒息させて、すべて穴埋めにしたそうだ。タイの養鶏場でも生きた鶏をそのまま袋に詰め込めている様子がニュースで流れていた。
鶏肉や卵を食べて感染した例はなく、肉も75度C以上、1分間加熱すれば問題がないとされているにもかかわらずである。ただ、発症した鶏から人への感染はどうやらあるらしい。そんなことから、人への感染を防ぎ、不安を取り除くために「皆殺し」というわけだ。BSEの場合でも、鯉ヘルペスの場合でも、大量のいのちが人間さまのために抹殺されていった。
これらのニュースに接するたびに、所詮、こうした生き物は人間の食糧としての意味しかもたれていないと、つくづく感じてしまいます。人間は利用するだけ利用して、都合が悪くなれば、平気で殺してしまう。そこには、私たち人間のために尊いいのちが犠牲になっているという痛みが感じられない。まして、毎日食するいのちの恵みに対して、どれだけ感謝の念で合掌しいただいていることか。昔からの習慣が廃れていくのも無理ないことだ。その一方で、お気に入りのペットに対しては、家族同様に、あるいは家族以上に愛情を注ぎ込み、それが亡くなると立派なお墓を建てたり、悲しみにくれたりもする。どこか尺度が狂っているとしか言い様がない。
「邪見、驕慢、悪衆生」一親鷺聖人がおっしゃっているように、人間の偏った見方、驕り高ぶりが、ここにも顕著に表れているように思う。すべてのいのちがお互いに係わり合い、支え合って、はじめて一人ひとりが存在しているという事実に目を背け、ひとり人間様だけが尊く、他のものはその人間に利用されて初めて価値があるように錯覚している私たち。
如来さまのお心を大悲という。この「悲」という字は、真実に目をつむり、自分の都合でしかものを見ない私たちを哀れみ悲しまれているということだ。まさに「恥づべし、痛むべし」の私たちである。(引用ここまで)

ずいぶん前の記事ですが、私たちは以前と変わらず、生き物を利用しているように思います。簡単に数字で何匹殺処分しました、とよく目にします。私たちは、仕方ない、人間に移ったら大変だから、という理由は当然だと思っています。当然ではないことを当然と思わず、少なくとも悪いなぁ、くらいは思って頂きたいと思います。
殺伐とした時代に、人間の思いやり、悲しみを感じる心が必要になってくるのではないてしょうか。いくら福祉の充実といって予算をつけても、社会が優しいまなざしをなくしていくといらないものだからシンでも当たり前、殺してもしかたない、と考えていくようになるのではないでしょうか。    釈 慈明

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