平成28年10月5日(水) 自分のこと、人の事
先日来のササゴイ騒動、4日目に箱の中で冷たくなっていました。
前夜、食べさせたえさを吐いて、片目をつぶるような仕草をしていたので、少し危ないとは思っていましたが、まさか死ぬとは。
横たわり、足をぐっと握るように縮めていました。
それなのに、目は、きれいなままで見開かれていました。
わずか4日間のつきあいでしたが、せめて自然に帰してから、と思うのは、勝手な妄想なのでしょう。
自然に帰しても、たいそう厳しい時間を過ごしたと思いますが、写真にあるようなりりしい姿を見たかった。
庭に埋めるときに、目をつぶらせようとするのですが、どうしてもつぶってくれません。
おまえのせいで、というようなみみっちい目の光ではなかったと思います。
具合が悪くても、死期を悟られてはいけない、弱みを見せてはいけない、と、精一杯、頑張った光だとみたいです。
ただ、もしかしたら、もう一度、野原を走りたかったなぁと思っていたとしたら、本当にすまない気持ちで、どこにも持って行きようのない悲しみがいまでも続いています。
少しだけ、鶏肉を食べるのを躊躇するような気持ちがあります。太ももなんか似ているんですよね。
私は僧侶なのでお通夜や葬式、ご法事に行きます。申し訳ありませんが、その都度、ご家族、関係者の悲しみに同感することができません。悲しいのだろうな、とは思いますが、涙が出てくるほどではありません。
今回、ササゴイの死を通して、悲しみは個人的なものだなぁと改めて感じました。他の人には分からないものがあるようです。
私はこんなに悲しかった、ましてや長年連れ添った方とのお別れは、言葉にできないほどの悲しみがあったのかと、今更ながら、ご法事の方々のおこころに少しだけですが、気づいたような気がします。
思えば、何回か私もお別れの悲しみがあったはずなのに、忘れてしまっていました。
感傷的な自分勝手な散文ですが、生きることは悲しみを受けるということで、この悲しみを深いところで共感される方が、仏様というのでしょうか。
自分一人の悲しみにとどまらず、それが他の方への共感として広がりを持つことは大切なことだと思います。
自分一人のために世界があって、だれも分かってくれない、という世界観は、とんでもない世界を作っていくことになりはしないかと心配ですが、すでにそういう方向に動いているようです。身も知らない人を傷つける事件が目につきます。また、政治では、自己責任といって他者の悲しみを切り捨てていくような動きがないでしょうか。
思いやりの心を持つことは立派なことだといえるのは、お寺かこども園(幼児教育の場)しかないのかなと思いますので、責任の重さを感じています。優しいこころをもった人たち、いっぱいの地域であることが理想かなと思います。
願成寺 藤本ジメイ