師走
師走は、禅宗のえらいお坊さんでも走ってしまう忙しさ、というような意味です。翻って、足下をじっくりとみて歩きなさい、という意味だと思います。
2007年11月19日宮崎日々新聞の投書から
友人家族とともにコスモス牧場に出かけた日の出来事。お店から一組の親子が出てきた。次の瞬間、小さな女の子の手から買ったばかりのかき氷が滑り落ちた。と若いお母さんはすさまじいけんまくで子どもに怒鳴り始めた。
私たちの耳はその親子に、そして目はさっきのかき氷に集中していた。あのかき氷、いつ片付けるんだろうか・・・。友人は「あんなに子どもをしかり続けても意味なし。親としてまずやるべきことがあるだろう」と言った。私は「うん」と一言うなずきながら、とうとう我慢できなくなり、空っぽになったその容器を、ごみ箱へ持って行った。お父さんは黙ってソフトクリームをほおばっていた。(後略)
2007年11月25日朝日新聞天声人語から
筋肉の麻痺のため、自宅からスクールバスに乗るまでの200メートルを歩くのに数十分かかる少女がいた。日々大きな苦痛を背負っているとみえた少女には、しかし、朝の楽しみがあったという▼まず喫茶店の前で、店員の女性とあいさつを交わす。言語障害もあるので、周りには「うーうー」としか聞こえないが、女性には「おはよう」と聞こえている。仕出し屋の前で最初の休みをとり、猫のクロにもあいさつする。▼続いて、まばらに木の生えたところで休み、おしまいの休みは草花の植えてある家の前でとる。マツバボタンにそっと触れて、朝のあいさつは終わる。「少女の朝の数十分の生活を知ったとき、私は衝撃を受けました・・・この少女によって、『子どもが見える』ということの意味を教えられました」。灰谷健次郎さんが「希望への橋-わたしの子ども原論」に書いている。(中略)
▼「子どもの発する声から人間所在の危機を推察することは十分可能なのに、そうしようとしない教師は自らの人間性を見出せないままでいる、という悲劇まで加わる」▼子どもたちを見るだけではなく、見つめなければ「子どもが見える」ことにはならない。現代の家庭や教育の現場を照らす手がかりを、あの少女や命あるものたちとの触れ合いで得たのだろう。(天声人語ここまで)
「見つめる」時は、ただ見つめる。失敗しても成功しても、右に行っても左に曲がっても。
見つめることを忘れた人は、目先の結果ばかりを気にして、結果として悲劇がおとずれるのかもしれません。見つめる目は外だけではなく内なるものにもそのまなざしを向けることが出来れば素晴らしいことです。 仏教では、自分の中を見つめ、正していくことを内道といいます。外ばかりを見つめて、自分のことを顧みないことを外道といいます。よく時代劇で「この外道が」というのは、悪いことは人のせい、いいことは自分の手柄、だから、人が不幸になっても知らない、そういう生き方をする人をそう呼ぶのです。子どもをしかるときには、しかっている自分の頭に手を当ててみることです。角がはえていませんか。角がはえているとわかれば、問題は解決したも同然です。 矛盾しているようですが、鬼の目にも涙というじゃないですか。涙のない生き方をしていると、ただの鬼です。気をつけましょう。お互いに・・・