こんな性格だから・・・修行ということ
先日、ある事件(保護責任者遺棄)の傍聴に行ってきました
赤ちゃんをみるべき人が責任放棄して赤ちゃんが餓死した事件でした
いろいろな事実が明らかになると、(とてもここでは書けないような)悲惨な時間を赤ちゃんがすごし、
最後の時を迎えたことは筆舌に尽くしがたい苦しみであったろうと検事が述べました。
おそらく裁判員の方々も同じように感じたことでしょう。
判決は求刑通り、母親に5年、その友達に4年6ヶ月の実刑判決でした。
その中で、私が特に気になった母親の言葉があります。
検事「あなたはあかちゃんをほっぽって不特定多数の友達の所を泊まり歩いていましたね」
母親「私は誰かと一緒にいないとさみしい性格なのです。だれでもいいから一緒にいたかった」
赤ちゃんが餓死したという事実とあまりにかけ離れた軽い言葉でした。
母親の生い立ちを考えると情状酌量すべき事柄があるとはいえ、罪の重さを軽くするにはあたらない、との判決でした。
こんな性格だから、こうしたのです、は本当だったのでしょうか。性格のせいにして良かったとは思えません。
生まれたときから怒りっぽい赤ちゃんはいません。性格は作られていくのではないでしょうか。
仏の子どもは、やさしいこころをもって、ありがとうの言える子になってもらいたいのです。
そのためには日頃から優しさに出会わなければならない、ありがとうのことばに出会わなければならないのです。
行いを正すことでこころが変わっていくと信じて、やさしい態度とことばをこどもに投げかけるのが保護者であり、
じいちゃん、ばあちゃんであり、保育教師なのだと思います。
先ほどの母親は長い時間、自分の罪と向き合うことになります。
今度は優しい人に出会い、優しい言葉を掛け合える人に出会って欲しいと思います。