叱り上手と叱られ上手
以前新聞のコラムで五木寛之さんが叱ることの難しさを書いていました
叱るときの三つのルールがあって、一つ、感情的にならないこと、一つ、出来事を叱っても人格を叱らないこと、一つ、長時間グズグズ文句を言わないこと、と言われる。確かにそうだが、あうんの呼吸というか叱られる側の態度により要領よく叱ることが難しくなるとも言われる。
素直に非を認めてさっぱりと謝ってくれればいいが、「いや、そう言われても、云々」と反論してくる手合いもいる。叱られ上手も才能の一つかもしれない、ということでした。叱るのも叱られるのも才能か。
私も叱ることの難しさにいつも悩まされています。先日も道具を洗うよう注意を職員にしました。叱るというより注意、でした。しかし、職員から「洗いました」と反論されました。
安倍首相のころ、ご飯論法という論題がはやりました。ご飯は食べていない、というから朝食抜きなのかと聞くとパンは食べました、と答える。ちんぷんかんぷんです。
職員が洗ったという道具を、私は汚れ物として洗いました。明らかに泥だらけで汚いと判断したからです。同じ洗う、という行為ですが全く違うのです。私の指示が通らないのなら、もう一歩踏み込んで、洗うとは水をかけて手でごしごし洗って泥や草を取らなくてはいけない、と言わないと通じないようです。だから、叱るというのは難しい。言葉を通じ合うと言うことは難しいから、丁寧さがいるのでしょう。
私は人間ができていないので、くっ、となったのは仕方ないですよね、だから私は叱かりべたです。sigh
藤本慈明