曽於市のしゃらこども園は、豊かな思いやりのある心、知的好奇心や遊び心のある保育、教育、基本的生活習慣の育成等を通してまことの保育(仏教精神に根ざした保育、教育)を目指しています。

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反省 

少し前の日本人はあだ討ちを公然と認めていたようです。殺された父の敵を子がやりとげるのが武士の当然の行いであったようです。あくまで時代劇からのイメージですが。
しかし、考えてみると動物は敵討ちをしません。シマウマが、「あのライオンは、俺の父を食べやがった、ちくしょう、復讐してやる」とはいいませんし、また実行にも移しません。人間なら、たとえそれがライオンの当然の行いだとしても、おそらくそのライオンを人食いライオンといって殺しにかかるでしょう。
復讐って誰のためにやるのでしょうか。
反省は反求ともいい、「事の原因を我が身にかへりみ求める」「我が身を責める」と辞書にあります。いま世界の国々でイラク戦争の反省がはじまっています。しかし、当のアメリカ人は一向にそのつもりはないようです。
すくなくとも、アメリカを代表する大統領にはなさそうです。
こんなことを思ったことはありませんか。ほ一、アメリカ人ははっきりものをいうわい、私も人の意見に左右されずに自分をしっかりもたねばいかん、と。人は人、自分は自分、流されずに自分のスタンスをきちんとしなくては、と。ここで問題としたいのは、あまりに自分をしっかり持ちすぎると、外に対して強い壁を作り、よけいな争いごとを作っていかざる得なくなるのではないか、ということです。自分が自分であることを守るために、外に対して強力に反発し、相手には無関心になり、自分の行為だけが正しいと思い違いをしていないでしょうか。
なんだか今の日本の状況と似ていませんか。
いま、中東のイスラエルは、パレスチナとの間に高い厚い壁を建設中だそうです。長さ数百キロに及ぶ壁です。
自分たちの権利を主張しよう、侵害されたくないと思うがあまり、物理的にも、心にも大きな壁を作ってパレスチナとの和平の道を閉ざすことになっています。堅い壁を持ったもの同士はどうあっても交わることはなく、ぶつかり合いをして、憎しみと復讐の連鎖を続けるばかりです。
仏教に「諸法無我」という言葉があります。もともと「私」という確固たるものはないのに、それに執着してものの姿を正しく見ることができなくなっているこということです。「私」というのは幻のようなものなのです。わかっていても、「私」がばかにされた、軽くみられたとなると怒り出すのが「私」の有り様です。
「私」というフィルターを通してしか、ものをみれないといえます。
「私」をもっと柔らかく持ってはどうでしょうか。弱さを受け入れると周りが見えてきます。これは柔らかさと同時に強さでもあります。堅い心は折れれば終わりです。しかし、柔らかい心は苦しみをなくしはしなくてもそれを転換して、また立ち上がる強さを備えます。起きあがりこぼしのようなものです。その中の重しが仏様です。この重しがしっかりあれば、またごろごろと起き上がっていけます。
「私」中心の世界の見方から仏様中心の世界の見方へ私は変わってゆきたいです。南無阿弥陀仏
願成寺僧侶釈慈明

以上の話は2,003年に書いたものです。
14,5年たっているのに、少しも事態は変わっていないですね。
かえって悪くなっているような。
日本の勇ましい方々は、はっきり言ってやる、とすごい剣幕です。
結論を急がず、じっくり話し合い行動していくことも時には重要ではないでしょぅか。
この世は相手もいることですから、上手くいかないことは多々あります。
お互いの心が変わらなくては、重大な事になりそうで怖いです。
まずは、私から。

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