曽於市のしゃらこども園は、豊かな思いやりのある心、知的好奇心や遊び心のある保育、教育、基本的生活習慣の育成等を通してまことの保育(仏教精神に根ざした保育、教育)を目指しています。

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「現在・過去・未来、あの人に逢ったなら一、私はいっまでも待ってると誰かつたえて一」これ覚えている方いらっしゃいますか。当時大ヒットした渡辺真知子の「迷い道」という歌の歌詞です。

続いて「ひとつ曲がり角ひとつ間違えて迷い道くねくね」とあります。
私たちはタイムマシンにあこがれます。ああ、あの時こうしていれば、こんな自分ではなかったと悔やむことがたくさんあり、あの時に戻れたらきっと今の自分は違った自分になるのにと思います。まさに、「ひとつ曲がり角、ひとつ間違えて迷い道くねくね」状態です。
では仏様はこのことをどういうふうにおっしゃっているのでしょうか。

仏教にもいろいろな考え方があって、過去、現在、未来の三世がまさにあるとする三世実有説というものがあります。
有ると前提すればタイムマシンで過去にいったり未来にいったりできるわけです。しかしここに重大な欠点が存在します。それは、もしこれを認めとる仏教の一番の根本の諸行無常、諸法無我に反してしまう事態がおこるのです。(これはインドで説かれた倶舎論です。唯識3年、倶舎8年といわれる難しい考えです。相当乱暴に扱っていることをお許しください。)
もし過去によって現在を変えようとするなら、現在は過去に支配されていることになります。これは宿命論であって仏教では否定されます。
もし未来に起こることが今現在に決まっていくのならこれは運命論であって宿命論と同様に否定されます。
仏教で問題とされるのは常に「今」です。
人生、山あれば谷あり、喜びあれば悲しみあり、です。喜びだけの人生はないし、悲しみだけの人生もないのです。単なる今の結果だけを問題としないで、自分の人生にどのように自分が主体的に関われるかが人生の意義と言えないでしょうか。

最後に「法句経」から仏の言葉を。
「執着があれば、それに酔わされて、ものの姿よく見ることができない。執着を離れると、ものの姿をよく知
ることができる。だから、執着を離れた心に、ものはかえって生きてくる。
悲しみがあれば喜びがあり、喜びがあれば悲しみがある。悲しみも喜びも超え、善も悪も超えはじめてとらわ
れがなくなる。
まだこない未来にあこがれて、とりこし苦労をしたり、過ぎ去った日の影を追って悔いていれば、刈り取られ
た葦のように痩せしぼむ。
過ぎ去った日のことは悔いず、まだこない未来にはあこがれず、とりこし苦労をせず、現在を大切に踏みしめ
てゆけば、身も心も健やかになる。
過去は追ってはならない、未来は待ってはならない、ただ現在の一瞬だけを、強く生きねばならない。
今日すべきことを明日に延ばさず、確かにしていくことこそ、よい一日を生きる道である。」
私たちはいつも仏様に照されています。仏のことばの確かさを感じます。南無阿弥陀仏
釈慈明

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