曽於市のしゃらこども園は、豊かな思いやりのある心、知的好奇心や遊び心のある保育、教育、基本的生活習慣の育成等を通してまことの保育(仏教精神に根ざした保育、教育)を目指しています。

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支え合おう 敬いあおうみんななかまだ

漢字の成り立ちを考えるときに、必ず出てくるお名前が白川静先生です。支え合おう 敬いあおうみんななかまだ

本場中国の研究者より革新的な漢字の解釈をされた先生で日本の誇りです。
漢字が占いや呪術、政治を元にしていることがよく分かります。

「幸」さち、という字について考えてみます。
幸はしあわせ、幸福の「こう」です。
現代ではほとんどこの使い方をしますが、もともとは海の幸、山幸、といった、
なにか恵まれたものを表す言葉です。
わたしの祖母が「幸」と書いて「コヲ」という名前だったのも、明治時代の食べるのも苦しい時代に、せめて幸多き人生を、という気持ちがこもっていたと思います。

では、もっと時代をさかのぼって本来どういう意味だったかというと、「幸」という字を横にしてみると何となく分かります。
幸は手かせ(手錠のようなもの)の形だったようです。
当時の罪人に対する刑罰ですが、一時期に手の自由を奪われるのは不自由ですが、他の刑に比べれば思いがけない「しあわせ」でした。
理不尽にも死刑になったる刑を受けた人もいたでしょう。
もちろん殺してしまう以外にもいろいろな刑がありました。

目を傷つける刑も、入れ墨を加える刑もありました。
足を切ったり手を切ったり、もう、やりたい放題だったようです。
つまりより重い刑罰を免れるというので「幸」というのです。
不幸中の幸い、が一番ピンとくるのではないでしょうか。
しかし、他の不幸せと比べて自分がまだまし、という姿勢はいかがなものでしょう。

あそこは子どもさんが病気で大変ね、うちは元気で良かったわ・・・
旦那さんが亡くなったんだってよ、
うちのは酒飲んでだらしないけど、元気だからしあわせと思わなきゃ・・・
人の不幸せで自分のしあわせを感じるということは、いつか自分も他人に踏みにじられることを意味します。
そんな生き方ではいけない、あなたも苦しみますよ、というのが仏の教えだと思います。
他に対する優しい心を持って欲しい、なにか一つでも、言葉かけでも笑顔でも、何でもいいからできることをしたい、という心が大事です。

当たり前のことをいっているようですが、
私はさもしい心が根深く他のしあわせを自分のしあわせとは考えられません。
考えられないからしなくていいのではなくて、考えられないことは恥ずかしいことだと思わせて頂くことがありがたいことだと思います。

みんな仲間だよ、仏の話を聞ける仲間がいるほどすばらしいことはない、簡単ですが、そう言える人がいれば有難いです。

 

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