曽於市のしゃらこども園は、豊かな思いやりのある心、知的好奇心や遊び心のある保育、教育、基本的生活習慣の育成等を通してまことの保育(仏教精神に根ざした保育、教育)を目指しています。

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いい加減

20年ちょっと前、結婚から一年たって新婚旅行のようなものをしました。トルコ(ターキー)のイスタンブールに寄る行程でした。先日、ブルーモスクそばの広場で自爆テロがあり、あぁ、あそこはトルコ人に「あんたは中国人か」と聞かれたところだったと思いだしました。ずいぶん物騒な所になったものです。

こうした事件を見ると、ISなんてとんでもないなぁ、日本は良かった、と思います。しかし、日本人もそんなに威張れたものではありません。わずか140年前の江戸末期から明治初めは、とんでもない暗殺が行われていました。それは明治維新と言われる時代です。あの頃の一般的なイメージは、頭の固い幕府を、やわらかな改革派がぶっとばした、というくらいでしょうか。しかし、そうした時代の見方は一方的であるという論調が最近目立つようになってきました。細かいことはそれぞれ考えがあるので申し上げませんが、少なくとも明治維新というものは、狂信的な宗教改革(まるでISのような)であったことは事実です。特に薩摩藩で顕著でしたが、廃仏毀釈、お寺を壊して神社にするということ、が徹底して行われました。お坊さんを神主にするというバカげたこともやったのです。仏像を焼き払い、お寺を壊して跡地に神社を作りました。お坊さんは馬鹿にされ、さげすまれるようなこともあったようです。思想的な中心は水戸藩、そして行動隊が薩摩藩、長州藩であった、という歴史の見方はいかがでしょうか。このようなことは民衆から始まったのではありません。日本は神様も仏様もみんなとりこんで仲良くやることが出来ました。 神様はどんな所にも魂が宿っている、仏様は、どんなものにも仏性があるといいます。だから、敵味方の区別がなくなります。しかし、万物を作った神が出てくると、いっきに元気が出すぎるきらいがあるのです。神のいうことは絶対で、言うことを聞かないものは、殺しても仕方ないのです。縁あれば、何でもしでかす人間だという認識がリーダーになければいけません。もしかしたら、わかっているから神を利用して自分のやりたいようにやろうとしているのかもしれません。仏の教えが途絶えたら、いったいどうなることやら。私が心配してもどうにもなりませんが、仏様とのご縁をちょっとでも持って頂かなくてはならないと改めて思います。まずは、こどもたちが、そしてその保護者の皆様が手を合わせお念仏する機会を作っていきたいと思います。                                                                    

 

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