曽於市のしゃらこども園は、豊かな思いやりのある心、知的好奇心や遊び心のある保育、教育、基本的生活習慣の育成等を通してまことの保育(仏教精神に根ざした保育、教育)を目指しています。

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大きなものは気づかない

先日のお色干し法要で聞いたおはなしを基にしています。
仏さまのおはたらきは、深くて広いが、私たちが意識するものは浅くて狭いものだ、という話です。
例えば、生き死にについてです。
これは重大問題で、かつわかりやすい面があります。
つまり、死にたくないので、健康に気をつけて長生きを目指す、ということです。
健康はわかりやすく、そのための努力も目に見える形で目指すことができます。
今はやりの、鯖の水煮缶や納豆が身体にいい、とか、なになに体操がいいとかです。こうした分かりやすい話になると、人は積極的に動きます。すぐにスーパーに行って缶詰を買いに行き、体操を始めます。もっとも長続きするものではないようですが。
このように、長生き、健康については、注意して勉強します。
しかし、仏さまの深くて広い話になると少し違う見方があります。
それは、生き死にはどうでもいい、ということです。人は生き死にについてはよく観察して努力しますが、生まれたら必ず死んでいく存在だ、ということについては興味がないようです。それを言っちゃおしまいよ、というこどでしょうか。
それでも、本当に大事な問題は、死にゆく存在だということを土台に生きてゆく、生きてゆく方向を定める、ことではないでしょうか。
また、こんな話をされました。
大雨の中、傘を貸してくれる人がいれば感謝するが、家に帰って部屋でゆっくりするときに、雨に濡れずにゆっくりできる家があって良かった、と感謝する人はごくわずかでしょう。みんな、当たり前と思っているから。
帰る家がない人は沢山いるでしょう。それは、家庭が崩壊して帰れないという人も含みます。
大きな傘、家には気づかないようです。
先日、学童のこどもたちに次のように話しました。
君たちはお父さん、お母さんから何をプレゼントしてもらうとうれしい、と聞きました。
口々にゲームソフト、とかベイブレード、とかいいます。
そうだね、それはとてもうれしいことだから、きっとありがとう、と言うよね、と聞くと、言う、言う、うれしいもん、といいます。
では、毎日お母さんかお父さんが作ってくれるご飯を食べるときに、ありがとうって言ってる、と聞くと、ぽかーんとした顔をしました。こどもたちは、ご飯を食べるという当たり前のことが、ことさら大事で大変なこととは思っていないと思います。
ご飯食べなかったら、お腹がすいて、死んじゃうよ、というと何か気づいたような顔をしていました。
当たり前にあると思っていると、私たちは感謝することや考えることができなくなってしまうのです。

仏様の話を聞いても、なんにも思わない、おもしろくない、というのは私の問題だと認識することが大事ではないでしょうか。生まれて死んでいくいのちが仏になる話、私のいのちは仏になるいのち、と仏さまの深くて広い働きを聞き入れていくところに生きていく方向が定まっていくのではないでしょうか。

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